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ジャニー喜多川(ジャニーきたがわ、Johnny H. Kitagawa、本名:ジョン・ヒロム・キタガワ(John Hiromu Kitagawa)、漢字表記:喜多川 擴(きたがわ ひろむ)、1931年(昭和6年)10月23日 – )は、日本の実業家・芸能プロモーター・音楽プロデューサーで、ジャニーズ事務所、ジェイ・ドリーム、ジャニーズ出版、ヤングコミュニケーション コンサート事務局、東京グローブ座、つづきスタジオの社長である。アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス市生まれの日本人。
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父親は高野山米国別院の僧侶(第3代主監)で、1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)までプロ野球チーム「金星スターズ(元・ゴールドスター、後・大映スターズ)」のマネージャーだった喜多川諦道。諦道の次男として、1931年(昭和6年)10月23日にアメリカ・ロサンゼルスに生まれる。姉はメリー喜多川、兄はNASAでアポロの設計もしていた科学者だったが1980年代に50代半ばで逝去している。

 

1960年代初頭、ジャニーは自分の住んでいた東京・代々木の占領アメリカ軍宿舎「ワシントンハイツ」にて、近所の少年たち約30名を集めた少年野球チームのコーチをしていた。そのチーム名は、本人のニックネーム「ジャニー(Johnny)」からとって「ジャニーズ」と名付けられた。このチームのメンバーには、浜田光夫・小畑やすし・設楽幸嗣等もおり、応援団には松島トモ子までもが居た。しかも、プロ野球の球団や力道山等に支援されていて、練習場も後に池袋にある立教大学のグラウンドへと移行した。

 

ある日、このチームのメンバーの中から代々木中学校に通う4名を選抜し映画館に連れて行く。そして、そこで鑑賞した映画『ウェストサイドストーリー』に一同感動し、エンターテインメント事業を興そうと決意した。1962年(昭和37年)4月、自身が集めた野球チームのメンバーである4名の少年と、最初のグループであるジャニーズ(通称・初代ジャニーズ)を結成する。最初は池袋西口にある芸能プロダクション「新芸能学院(現:名和プロダクション)」に籍を置いていたが、1962年(昭和37年)6月にジャニーズ事務所を創業、渡辺プロダクションと業務提携し渡辺プロを窓口としていたが、1975年(昭和50年)1月、正式に株式会社として法人登記された。

 

姉のメリー喜多川は、1950年代から四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角にあった「スポット」という名のカウンターバーを経営しており、バーの客だった東京新聞記者(後に作家)の藤島泰輔と結婚した。ジャニーがジャニーズ事務所を興すとバーを閉店し、事務所の経理を担当するようになった。

 

事務所の黎明期には、フォーリーブス・郷ひろみ・たのきんトリオ・シブがき隊・少年隊・光GENJI等で正統派男性アイドルの礎を築き、また正統派だけでは通用しなくなると、SMAP以降の男性アイドルの活躍の場をバラエティの分野にも拡げた。

 

ジャニーが同性愛者(少年愛、ペドフィリア)であり、事務所に所属する男性タレントに対して猥褻な行為を行っているとの噂は、1960年代から散発的に報道されていた。

 

1999年(平成11年)、『週刊文春』がジャニーズ事務所に関する特集記事を掲載し、ジャニーが所属タレントに対して同性愛行為を行い、事務所では未成年所属タレントの喫煙などがあると報道した。これに対しジャニー側は記事が名誉毀損であるとして、文春に対し1億円あまりの損害賠償を求める民事訴訟を起こした。

 

2002年(平成14年)3月27日の一審判決では、ジャニー側が勝訴し、東京地裁は文春側に880万円の損害賠償を命じた。文春側はこれを不服として東京高裁に控訴した。2003年(平成15年)7月15日の二審判決では、ジャニー側の同性愛行為を認定した(矢崎秀一裁判長)。このため同性愛部分の勝訴は取り消され、損害賠償額は120万円に減額された。ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年(平成16年)2月24日に棄却され(藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償と同性愛行為の認定が確定した。 また、『ニューヨーク・タイムズ』、『オブザーバー』などの海外メディアでも取り上げられ、この問題をタブー視するなどして報道しない日本のマスメディアの姿勢を指摘した

 

wiki
 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8B%E3%83%BC%E5%96%9C%E5%A4%9A%E5%B7%9D

 

 

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